6)自由主義哲学者J・S・ミルの勇気/コンディションと勇気/凶器を持つ人への対処護身術(前編):兵頭二十八先生
ジョン・スチュアート・ミルは1873年、つまり日本の明治6年に死んだ、英国
の自由主義哲学者です。
このミルの父親が変わった在宅知識人で、息子を一度も学校にやらずに、毎日
朝から時間を割いて、マンツーマンで、一流の自由主義経済学者に仕立てよう
とします。
物心つかぬ3歳からギリシャ語を教え、8歳からラテン語を教え、算術も
毎晩みっちり教え、ギリシャ史、ローマ史を原文で読ませ、いきなりリカードや
アダム・スミスの著作から経済学の最先端の世界に分け入らせる……。
その甲斐あって、なんと20歳になる前に、ミルはひとかどの哲学者、政治評論家、
著作者、演説家になりました。
ミル青年は、当時のそうそうたる英仏の経済思想家たちのコミュニティの
メンバーと対等に交わり(フランスにも遊学)、考えたことを自由に出版する
ことができ、世間的な名声も勝ち得ました。前途は洋々としているように見え
ました。
ところが20歳で彼は鬱病にかかってしまうのです。
ミルが父親から教えられ、自分でもそれは正しいだろうと納得してきた
「功利主義」――すなわち神や国家ではなく個人を出発点として平等で自由な
市民社会を考える、当時最新のイギリス流の政治思想――の行き着く先は、
それほどバラ色じゃないってことに、とつぜん、彼は気付きました。
なんといっても、平民の個人と個人の間の能力の格差が、埋めようもなく
巨大でした。知識だけではない。政治哲学を自分の頭で考えてきたかどうか、
その深さが人によってまるで違っています。また、政治に関与しようとする
意欲を強く維持している個人は、ごく少ないのです。たとえばプラトンの哲学を
実践しないのは、プラトンの哲学を知らないのも同じなのですが……。
20歳になってミルにもそこが分かってきた。個人のヤル気のなさは、後天的に
外部から強制したり誘導しても、どうしようもないのだと。また、いい歳をした
成人に他人が何かを教えようとしても、ほとんど効果が無い、とも……。
誰もがミルのような教育を受けているわけではないし、また仮に受けたからと
いって、ミルのような青年になるとは限りませんよね。
ミル自身、万能人ではありませんでした。彼は幼少期から同世代の遊び友達が
一人もいなかったため、運動機能に関しては、一生涯、でくの坊同然の不器用な
手足の持ち主でした。
ちなみに、19世紀なかばまでは、ありとあらゆる分野で天才的な業績を残す
ような、飛びぬけた発明家が西欧各国にいたものですが、19世紀末から、
そういう偉人はもう出てこなくなります。
テクノロジーの進歩のスピードが加速したため、多様な分野で最先端の課題を
把握することが、一人の個人には、とうてい不可能になったからでしょう。
多くの自由な個人は、新聞を読んだり投書したりはする(今ならば、2ちゃん
掲示板などへのカキコかw)。しかし、そんなのは統治への関与ではなく、政治
活動とすら言えないんです。
このことは、古代のアテネの市民が日々、何をしていたかを知るだけで、
ミルには常識でした。
アテネでは、全市民が緊張感ある政治に毎日、どっぷりとかかわっていた。
市民生活を送るということと、一人一人が政治を担任することは、ギリシャでは
イコールだったのです。
まさしくすべての市民が積極的に政治や裁判や国家的宗教行事に参画して
いたから、アテネには自由な思想があり得た。
責任をともなわぬ思索の表明を(2ちゃんカキコや新聞投書などで)いくら
したって、国家も社会もよくはならないことを、古代西洋政治史通のミルは承知
していました。しかし、それを他のイギリス市民は、解りたいとも思わないわけ
です。現状が、楽だからです。また、中産階級から上流階級まで、皆がカネ儲け
に忙しい「自由な資本主義」の時代にもなっていました。
1年以上、自殺を考えるほどに落ち込んだミルでしたが、それから2年以上を
かけて、次第に鬱病から脱したようです(それでも晩年まで、時折は再発した
らしい)。
鬱がとりあえず治った彼は、人の幸福について、思い違いをしていたことに
気付かされました。
彼はとうとう発見をしました。
幸福は、それを手に入れた瞬間、なくなってしまうのです。つまり、瞬時に
不幸に転換するものであったのです。
人が幸福であるのは、自分が欲する目標に近づこうと努力している、その
途中過程の間だけなのです。
だから、自分の幸福を目的にして生きると、誰でも不幸になるしかない。
不幸に向かって自分を駆り立て続けることになってしまうんです。
むしろ、自分以外の誰か(それは社会全体でもよい)の幸福を目的にして
生きていれば、人は幸福になり得る、とミルは悟りました。
なるほど、そう言われますと、幼少時に我慢することをしつけられなかった
子供は、常に不満で不幸に見えますね。
ここで、ついでに考えてみたいと思います。人間の記憶は古いものほど古び
ないので、わたしたちは、何歳になっても青年時代のかなえられなかった夢を
覚えていますよね。「あの初恋の人と結婚できていたら」なんて妄想することも
ありましょう。しかし、それらの夢は、実現していないからこそ、甘美なのです。
幸福は、欲するものに到り着くまでの過程にあって、到り着いてしまえば消える。
もし、その初恋の人が、(今のあなたの奥さんのように)あなたにキツい口を
きくようになったら……世界最大の悲劇でしょ? ミルの鬱病には、そんな
原因もあったのではないか。
J・S・ミルの話をこの連載でとりあげるわけは、彼は、このように開眼して
から、ものすごい戦闘的な評論家になって行き、フィジカルな戦闘力はほぼ
ゼロに等しい不器用な肉体しか有していなかったにもかかわらず、公人として、
あらゆる脅迫にまったく屈しないで最晩年まで政治活動を続けているからです。
このようなイギリス人エリートは、めずらしい。
自由主義とは、安楽主義じゃありません。自分の所属する社会の中に何人もの
敵をつくる。それを恐れていては自由な社会は実現しないのです。
ミルは、ラディカルな選挙制度(たとえば婦人参政権)を提案したり、
英国のインド植民地での苛政や、アイルランド独立運動への弾圧について、
容赦なく批判を加えたりしました。
「殺すぞ」といった脅迫状も舞い込んだそうです。ミルは、そうした手紙の
ほとんどが匿名であったことを回顧しています。彼は、選挙の投票も記名して
行なうべきだと確信しており、匿名の意見公表は有害視していました。
〈匿名の否定〉は、ミルの自由主義論の一つの柱だったと、わたしは思います。
最も自由であったときの古代アテネに、匿名の発言はあったか。――ありえません。
ギリシャの30万人規模のポリスでは、発言は人前で大声で為さねばならず、
そのさいに、IDを隠す自由なんてないのです。必ず、自分の顔と人格を
人々の前にさらして、特定党派を攻撃するなり、現在の多数派に向かって
異論を唱えるなりしなければならない。その緊張と責任を引き受けることこそが、
政治参加なんです。
他方で彼は、政府の「検閲」はなぜ自由な社会を破壊するかを、著作の中で
しっかり説明しています。言論の検閲は近代社会を破壊するが、匿名の政治的
発言もまた、自由を破壊する――というのが、ミルの信条でした。
ミルの鋭い洞察の一つとして、〈一国内に異なった民族が混ざっていると、
自由な制度はできない〉という指摘もあります。第二次大戦後のイギリスは
比較的、移民に寛容でしたが、さすがにシナ人が無制限に流れ込むのは許容
しないはずです。
また、ミルは、カウンター・プロパガンダは永久に継続しなければならない
ことも、警告しました。ある時代に人々が納得した、政治的真実の証明。
それが、世代交代とともに、納得の経緯が忘れられてしまうと、偽りの
プロパガンダが浸透してきます。
その偽りのプロパガンダに対しては、識者は、果敢に論争を挑まなければ
なりません。はるか昔に発見された政治的真実を、今の世代の人々に追体験
させ、確信を日々に新たにしていくようにしなければ、自由は、あっという間に、
損なわれてしまうのです。
(08/01/12)
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