8)スコット南極探検隊の「暴虎馮河」に類する匹夫の勇(前編):兵頭二十八先生
すでに春一番が吹いたとはいえ、北海道ではまだ寒い。今回は、南極
探検隊のお話をしましょう。
南極大陸は、レッキとした大陸なのにもかかわらず、入り江になって
いるロス海と極点との中間地域は、空気がウェットのようです。湿り気
があるという。
冬はマイナス61℃にもなります。夏でもマイナス30℃前後にまで下が
ることがある。それでウェットなのですから、たまりません。
北極海はもちろんウェットですが、周りが海であるおかげで気温は極
端には下がりません。逆にシベリア奥地だとマイナス60℃以下にもなり
ますけれども、空気はドライ。どうみても南極こそは、最悪じゃないで
しょうか。
南極大陸では、9月末から2月末頃日までは、太陽が一日じゅう水平
線の上にあり、今頃では、まだ夏です。初期の探検は、もちろんそうし
たシーズンを狙いました。
ノルウェーのアムンゼン隊が1911年12月14日、つまり南極における夏
至の数日後に、いちばんのりで南緯90度を征服します。かれらはそこか
らコースを折り返してサクッと生還しました。
彼らは100匹以上の犬を用意し、荷物を載せた橇は犬に引かせ、人間は
得意のノルディック・スキーで移動して、テントには暴風に強い半球型
を用いたのです。
おなじシーズン。別コースから一番乗りを競った英国のスコット隊は
1912年1月17日に極点にたどり着きました。
かれらは、まさかアムンゼンに先を越されるとは、極点近くでスキー
の跡を発見するまで、夢にも思わなかったようです。
アムンゼンが無教養なユダヤ系の船乗りであったのに比し、英国隊は、
インテリ海軍(予備役)将校とケンブリッヂ卒の医学博士などが中心
だったので、この勝負に関しては驕りがあったようです。
しかし、島国育ちの彼らは、大陸の「距離」をナメていました。
彼らは満州産の馬で橇を引かせることにこだわり、それがまったく役
に立ちませんでした。テントは、風に弱くて重い、三角屋根型でした。
当初予定していた馬もエンジンもだめになったのにもかかわらず、
無謀にも、スコット予備海軍大佐らは、なんと片道1480kmのほとんどを、
人力で重いソリを引っ張りながら進むことにしたのです。
もちろん、そこからまた1480km、犬も馬も機械動力もなしで、無事に
戻って来られると確信したらしい。
鹿児島市から徒歩で札幌市まで辿り着き、そこからまた鹿児島市まで
歩いて戻りますと、ちょうどこのくらいの行程になるでしょうか。
あるいは、北米大陸の東部ニューヨークから南部のニューオリンズま
で歩いて往復するのとも、同じくらいでしょうか。
ただし1480kmを2倍にしても、ニューヨークからロサンゼルスまでの
大陸横断には、少し足りません。(南極大陸の巨大さと、米国の、さら
なる巨大さが分かりますよね。)
どう考えても、スコット隊長とその部下たちは、イカレてました。
犬橇にほとんど頼らないとすれば、片道だけで、2ヶ月半かかる
道のりでした。
道路なんてないし、しかも、全行程が平地というわけでもないんです。
南極点の標高は、2765mでした。途中には大氷河帯もありました。途
中でどんな嵐が吹き荒れるかもわからないのです。
いくら名門パブリックスクールの激しいスポーツで肉体を鍛えていた
とはいえ、常識はずれでしょう。
じつは、彼らの前に、同じ英国のシャクルトン隊が、1908年、極点まで
あと179kmまで近づいていました。
それが生還しているために、スコット隊は自信をもっていたようです。
ただしスコットたちの前提であった、「1911年の天候も1908年の天候と
大差はない」が、大きく外れました。いつもの夏より、平均気温は10℃
以上も低かったのです。
そのような天候の振幅の可能性に関して泰然としているのは、海軍将校
に独特の態度だったのではないかと、兵頭は思います。
海軍士官は、遠征中の船の上では、寒かろうが暑かろうがひもじかろう
が、じっと我慢してジタバタせず、やれといわれた任務を120%達成して
帰港するのが、賞賛されるべき美徳だったのです。
しかし、それは極地の陸上の長距離遠征には通用しません。
はたせるかなスコット隊は、帰路のなかばで最終アタック隊5名のうち
2名が手足の凍傷でついてこられなくなり、遺棄同然のありさまで、
まず死亡。
残りの3人も、3月21日から荒れ続けた暴風雪のためテントを移動で
きなくなります。
しかも21日の時点で燃料と食糧が1日分しか残っていませんでした。
けっきょく吹雪のためテントに閉じ込められたままで、3月29日に、隊
長ともども全員が、疲労凍死しました。
連日の気温はマイナス30℃前後。出発点の海岸までは、まだ何百kmも
余していました。
わたしは、北海道のほぼ中央の山地の中腹にある上富良野演習場で
真冬の野営をした夜、放射冷却となった明け方に、マイナス30℃前後を
体験したことがあります。
部隊本部の大きなテントの中でストーブをガンガン燃やしていたにも
かかわらず、立ったままでじっとしていると「ここで体を動かさずにい
れば、死ぬかもな」と感じたほどでした。
今日の南極観測隊の人たちも、小屋の中を暖房するだけでなく、熱い
飲み物で体の内側から温めないと、たまらない、と言っています。スコット
隊に燃料がなくなったということは、お湯をわかすこともできなくなったと
いうことです。
このスーパー・クレイジーな遠征計画が立案され実行された背景として、
当時の冒険企画の多くを、英国海軍の予備役または現役将校が中心に
なって推進していたことが、大いに関係するとわたしは思うのです。
伝統的に、海軍が将校に求める勇気と、陸軍が将校に求める勇気には、
決定的な違いがあります。スコット隊は、海軍が求める勇気を発揮した
結果として、討ち死にを遂げた。このように、兵頭は思います。
これがもし英国陸軍の主導による計画であったら、あるいは米海軍や
ロシア海軍が計画していならば、スコット隊のような自殺は、しなかった
でしょう。
組織の文化が犠牲を要求したように思います。
そのお話をする前に、1910年前後とは、いったいどんな時代だった。
日本では「明治」が「大正」に切り替わるころでした。
当時、西欧人たちは、とにかく元気が余ってしまって困っていました。
なんでもいいから命がけの冒険をやってみたいという気分が、上流階級
から庶民まで、男子の間にみなぎっていた。
けっきょく、その気分が、1914年からの第一次欧州大戦を引き起こ
してしまうのです。その前夜に、南北の極点を目指すレースが繰り広げ
られたという次第です。
スコット以下の最終アタック隊5人の死亡は、次の夏である11月12日に、
捜索隊によって確認されます。そして、隊長スコットが持っていた記録に
より、スコット隊もアムンゼン隊には遅れたものの極点に到達していた
ことや、全滅に至った事情が分かり、世界的なニュース種を提供しました。
スコット隊は、馬が斃れ、発動機ソリは冷脆性のためシャフトが折れて
使えなくなってから、4人1組の人力ソリ3台で南進を続けました。
ところが、南緯87度32分で、さて最終支援隊を基地に帰そうというとき
になり、スコットは、自分が率いて極点まで到達させる最終アタック隊の
総人数を、1人増やそう、と決断してしまうのです。魔がさした。
具体的には、陸軍大尉のオーツスを加えたいと思ったようです。という
のはこの遠征はほとんど海軍主導でした。ひとりぐらい陸軍を混ぜるべき
だと、政治的に考えたのです。
かくして、4人ではなく3人だけが1台のソリを曳いて引き返すことに
なり、最終アタックは、予備海軍大佐スコット隊長(43歳)、医学博士
ウィルソン(39歳)、オーツス陸軍大尉(32歳)、ボワーズ海軍少佐
(28歳)、水兵エヴァンズ(37歳)の5名が、1台のソリで、極点を
目指してさらに南進することとなりました。
ほとんどがインテリの上流階級で構成されている学術探検隊であるの
に、1人だけ水兵が混ぜられているのは、端的に言えば、「人間馬」と
して指名されたのです。
エヴァンズは全隊で最強の筋力を誇り、しかもこの歳まで病気になっ
たことがないという大男で、申し分のない「馬」でした。
階級の全く異なる人間馬を橇のエンジン代わりに酷使すれば良いのだ
――と、死と隣り合わせの極地で何の葛藤もなく考えられるのは、英国
海軍将校ぐらいなものではないかなと思います。
これがヒマラヤのシェルパ族でしたなら、もともと高山には慣れ、金
銭で荷担ぎに雇われることで生活しているのですから、未踏峰に同行し
ても同義的な問題はないでしょう。
決死の冒険に兵隊をひとりだけ同行させた将校に対する酬いは、その
エヴァンズの凍傷という形で、いきなり、あらわれました。
支援隊を帰すときのキャンプで、橇の金属ライナーをエヴァンズら水
兵が交換しました。極寒の戸外では、たとい0.5秒でも素手で金属に触
れてはいけないことは常識ですね。エヴァンズはこの作業で手に軽度の
凍傷を負った蓋然性があります。薄い手袋をしていても、金属を何秒も
握っていたら、凍傷になったとしておかしくない。
凍傷は、寒いうちは何の痛みもないのですが、テントの中に入って体
を温めると、ものすごく痛むそうです。なにしろ、じぶんの身体の一部
が死んで腐っているのですからね。
アタック隊は、調子のよいときには、満載のソリを1日9時間、引っ
張りました。
エヴァンズは、傷ついた手で、スキーのストックを握り、橇のロープ
を引っ張らなければならなくなりました。そして5人の中でまっさきに
本物の手足顔凍傷患者になり、衰弱モードに入ってしまいます。
(後編へ続く)
(08/03/13)
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